
1955年(昭和30年)の被爆10周年に向けた記念行事の一貫として長崎市が建設を計画し、1951年(昭和26年)に着工、1955年の8月8日に完成した[1]。
制作は長崎県南高来郡旧南有馬町(現:南島原市)生まれの彫刻家、北村西望による[2]。70代の頃、東京都武蔵野市にある井の頭自然文化園内のアトリエにて制作された[3]。
像の柔和な顔は神の愛と仏の慈悲を、天に向けて垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした右足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた左足は救った命を表し、軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っている[1]。
像は高さ9.7メートル、台座の高さ3.9メートル、重さ約30トンで、鉄骨を芯にして、青銅製のパーツの表面には純白の石膏が直付けされている[1]。右手の人差し指には避雷針が設置されている。像の制作費用は3,000万円、制作期間は4年で、制作費は全て国内外からの募金により賄われた[1]。台座の2000万円は長崎市の予算である。
北村 西望(きたむら せいぼう、1884年(明治17年)12月16日 – 1987年(昭和62年)3月4日)は、長崎県出身の日本の彫刻家。本名は北村 西望(きたむら にしも)。
人物[編集]
昭和を代表する彫刻家の一人。代表作に長崎平和公園設置の巨大像「長崎平和祈念像」、国会議事堂内設置の「板垣退助翁」などがある[3]。文化勲章[3]・紺綬褒章受章者、文化功労者。日本彫刻会では西望の功績を称え、同会展覧会における最優秀作品に贈られる賞の名称を「北村西望賞」(西望賞)としている。
また、個人寄付により小中学生の教育美術振興を目的とした「北村西望賞基金」を設け[4]、これは2016年12月現在、北村西望賞教育美術展として公募展の形で継続している[5]。
長男の北村治禧も同じ彫刻家。
引用元について:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%92%8C%E7%A5%88%E5%BF%B5%E5%83%8F
